自分のことを出すのは苦手だから
どんな人か知ってもらおうと思ったときは、
昔オタクでした、って言う。
中学はマンガ部入っててマンガかいたり読んだりゲームしたりコミケにいったりアニソン覚えまくったりしてた。自分のタイプをはなすのに、オタクって分類がわかりやすいかなと思った。
私が14歳のときに、地上波でエヴァンゲリオンがはじまった。
主人公の子どもたちもちょうど14歳で、
思い切り心の闇を描く複雑なアニメだった。
思春期と時代の空気で複雑になっていく自分の内面にぴったりはまり、私はすごくはまった。
この時代、アサヤンとかで自分と同い年の普通の子供が歌手デビューするようになったり、
はじめて14歳の子供が猟奇殺人をして大きなニュースになったりしていた。私たちの世代。
経済が飽和になり、物質的な豊かさではないものを、求め始めた時代のような気がしてる。頑張れば報われるとか、夢のマイホーム、とか、これまでの絵に描いたような幸せの定義をそろえただけでは埋まらない、なにかを感じ始めた時代だと私は思ってる。
その時に14歳として生きていた私たちと、エヴァンゲリオン。
エヴァの話になると、誰が好き?ときかれると、私は1人のキャラに入れ込むタイプじゃない。
みさとさんはカッコよくて憧れ、けどネルフの計画の核には触れられなくて、身近な人のずるさをみた。アスカは同級生だったら苦手、けど誰よりも脆かった。カヲルくんは達観していてミステリアスで登場シーンは最高に好きだった。シンジははじめて人に好感をもった、でも人間じゃなかった!
やっぱり私はグズでのろまなシンジくんにどうしても自分を重ねて見てた。
自分からは何もできない弱くてへたれなシンジくん目線で、作品をずっと見てた。
だからシンジくんは好きになれないけどどうしても自分の目線だった。
訳のわからないものと戦いながら、シンジがずっと求めていたものは居場所だと感じた。
だから、私はテレビ版のあの最終回で、けっこう納得していた。
すべての謎は解かれずに、シンジの心の中で完結した結末。心の中で安心な居場所を見出した結末。
心の闇の受け皿になるような作品がエヴァンゲリオンだったと思ってる。
答えは見えないけど、今までのやり方ではもう上手くいかないことはわかる、本当は心にも目を向けないと、という時代の叫びのようなものだ。だから救いやすぐに答えがでる、というものではなかった。
そこから複雑な時代を泳いできた私たち。
ついに光を見せてくれたのは
鬼滅の刃の、まっすぐな愛!
人が鬼になる悲しみ、人が鬼に食われる悲しみ、
グロテスクな世界に光りまくる炭治郎のまっすぐな優しさと愛。
そして一歩一歩のたゆみないまっとうな努力!
まっとうな努力は報われる。
優しくて強い。
人の心を救うものは、鬼さえも救うのは愛しかない。。と思わせてくれる。
煉獄さんは死んでしまったけど、見せてくれたものは、愛と誇りに生きる姿勢。
世は闇にあるが、そこを照らすように生きる人を、心の持ち方を見せてくれているような気がする。
それが救いとなる、作品だと思う。
炭治郎のあのまっすぐな根性と、鍛錬の様子をみてると、格闘家の人たちと同じだ!
と思った。
最近、格闘家の人たちのYouTubeに元気をもらってる。フィジカルが強い人たちは明るくて楽しくて人を元気にする!
鼻や腕や足は折れても、心は折れない。
考えすぎてしまう自分に、別の世界を見せてくれる。
エヴァンゲリオンの時代から、私たちは確実に光を見いだしている。
と、オタクはいまやYouTubeオタクとなってしまい、こんな事を書きたくなってしまった。