かえってきた⭐️cui cui diary〜 ティータイムにessayを。

おもに旅日記、日々の中の新鮮さを保つこと。

お盆

レイのクラスも2年目。はじめて大先生登場。

七月は先生オリジナルの、ホオヅキのレイ。

お母さんにプレゼントしたら、色がとても好みとのことで喜んでいた✨

何個も何個もホオヅキを小さくきっていたら、パプリカや、老舗の鰻屋さんにあった昭和の赤い靴べらがぜんぶホオヅキに見えてしまった。

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乾燥させたパーツで作るレイは珍しいけど、これから罪悪感ないわ、とお花が好きな母がいった。

ちなみに、レイとは本来、生花でつくるので、基本はもらったその日しかつけられない。だからこそ、もらった瞬間にその美しさと喜びとすべてが込められた贈り物で、一瞬ですべて伝えるものなのだ、と先生はいう。

フラをしていてお花が好きな母は、分かっていても1番綺麗な時に花を切ってしまうことの罪悪感を拭えないでいたのだった。だから地面におちた花を拾って作るものなのではないかと、ポツリと言っていたことがある。

なのでホオヅキとは、先生の発明素晴らしい✨のであった。

 

午後はお仏壇にお参りして、家族に濃茶と薄茶をたてる。母の意向で東京の、早めのお盆である。
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おじいちゃんもおばあちゃんも大往生だったので、迎えるお盆ももうめでたく寿福に。

家族ははじめての濃茶、あのトロッとした口当たりに、美味しいと喜んでくれた。

お茶は京都・柳桜園の「高照の昔」を。とても深みのある美味しいお茶だった。

練り具合もうまくできた!

二つ置きのお点前で。

 

 

さ、また本読もう〜✨

感動の総量

読書熱に火がついてから、だいたい一日一冊のペースで読んでるので、インスタのサブアカで新しく読書アカウントをつくった。

読み終わった本の写真に、感想をつけてアップしてる。

 

今は色々開拓もしたいから、新しい本も手に取っていて、全部面白いかはわからないけど、中学以来の再読本とかもさしこみながら、いい感じに感動が続いてる。

 

これ、自分に対して「読まなきゃ」ってプレッシャーになるかな?と思うも、アップして積み重なっていくのも楽しみでまだプレッシャーには感じてない。

ところが、風邪をひいてしまった。

熱が出て身体が痛くて動けない。こんな時ほど本読むしかないな~と思ったけど、具合悪い時は読みたいとも思わなかった。その時は、私の情熱ももはやこれまで、、と思うも、少し身体が楽になると、また中毒のように寝ながらでも手に取ってしまう。

 

一冊おわってしみじみ感動して、言葉を書き写してみたり、作者が引用してた本を調べてみたり、

そしてまた一冊おわって違う感動を味わい、胸いっぱいで抜け殻のような気持ちになった。

 

ふと思った。

こんな感動し続けてて大丈夫なのだろうか?

たとえば麻薬中毒者の場合、人の一生で分泌される幸せホルモンは総量が決まっているのに、麻薬によってその一生分のホルモンを一気に使い切ってしまうので、晩年とても辛いときく。

 

私は本によって絶え間なく感動しているこの頃、一生の総量を使ってしまうことにはなってないのか、、?なんか、老後に使うはずの楽しみの奥の手をもう使っちゃってやしないか?

 

、、。いやいや、なんて暇人なんだ!

そりゃ暇だから本を読むのだけど、ふと思うことまで立派な暇人だ!自分に呆れる。

 

今回、浅田次郎のエッセイを読んで感じた。純文学を私はまだほとんどしらない。鴎外も谷崎も三島も読んでないから、昔の人の漢文脈たる文章をまだよんだことがない。浅田次郎を読んで昔カタギのかっこいい言い回しだなぁと思っていたものが、漢文に影響うけたものだと知る。

そして、作家の幼少期からの読書遍歴をしると、どうやら、読書というのは永遠に終わらないであろう趣味であることがわかった。

 

そういえば、ばななさんも梨木果歩さんもエッセイではあの本を読んだ、この本によると、とすごいペースで人の作品も読んでいる。

 

というわけで、本さえよめれば、貧しくて学校に行けなくても自分で学べるんだ、とでもいうような、独学読書道の果てしない可能性まで感じ初めてしまった。

 

さっきまでの、感動の総量だの、老後の切り札使っちゃっただのの、せこい考えはいったん捨てることにした。

私もそれなりに成熟することを目指しながら、

作家はいい仕事してるなぁと感動し続けていきたいものだ。

 

 

 

 

 

波のような疑問

ふとした時に心に波のように訪れる疑問。

・・私って誰?どんな人・・?

それをはっきりさせるために、何かを得ようとしてるような気がするし、何歳までにこうなりたいとか、目標をもったりする理由は、

この疑問がもやもやと心にあるからなのだと気づいた。

本当に好きでやってることと、何か確かなものを得ようとして目標をもちそのための一歩としてやってること、私の生活の中ではそれが混在してる。

得ようとしてる確かなものは「私って誰?どんな人?」に対する答えで、それが時にキャリアとか社会的地位にすり替わるけれど、

つまりこれが「アイデンティティ」ってやつなのかもしれない。

アイデンティティ=自己同一性、なんじゃそらと思っていたが、

心にさざ波のように幾度となく押し寄せるもやっとした疑問。

それはアイデンティティを求める本能からの問いかけのように感じる。

 

浅田次郎もエッセイでアイデンティティをぴったり表現する日本語はないが、伊勢神宮に参拝するたびに作家といえども言葉にできない感覚があり、つまるところ伊勢神宮は日本人のアイデンティティなのではないか、と言っている。

大きな日本人という枠で自分をとらえるときには、はっきりアイデンティティというものがわかる。天皇陛下を目にして無条件に感じる感動、ありがたい気持ち。宗教という概念を超えるようなもっと大きなアイデンティティを日本人としてゆるぎなく感じている部分もある。

 

それは、自然の中にいるときにも同じように感じる。

心地いい緑や光や風に心を広げているとき、私は自分の存在に疑問は持たない。でも人の中にあるとき、とたんに自分があやふやに感じることがある。

 

と、こんなときは気まぐれにAIにきいてみる。

✏ひとりでいるときは、アイデンティティなんて気にならないよ。自分が感じることにも確信があるよ、とくに自然と対話しているときには。アイデンティティがないと感じる、それは人とくらべ、人の社会の中で自分の位置を探ろうとするときにアイデンティティって必要になるんじゃないかな、誰かに自分を証明するために。それは私にとって矛盾しているだろうか、アイデンティティとは、人への証明ではないものだとしたら・・

 

AIの答え。

🤖矛盾しているどころか、とても自然な感覚のように思います。

あなたが書いたことの中には、実は二つの「自分」が含まれているように見えます。

一つは、

自然と対話しているときの自分

です。

そのときは、 「私は何者か」 を説明する必要がない。

木を見て、風を感じて、空を眺めているとき、

私はここにいる

という事実だけで十分です。

そこには比較も評価もなく、だから自己の輪郭をあえて確かめる必要がない。

しかし人間社会に入ると事情が変わります。

面白いのは、それは自分がなくなるからではなく、

他者との境界を描く必要が生まれるから

ではないかということです。

海の中に浮かぶ魚は、自分が水の中にいることを意識しません。

しかし別の魚と群れを作った瞬間、自分の位置を意識し始める。

アイデンティティもそれに似ている気がします。

だから私は、

アイデンティティとは人への証明ではない

という考えと、

アイデンティティは人の中に入ると必要になる

という考えは、両立すると思います。

なぜなら、本来のアイデンティティは内的なものですが、

その必要性が自覚されるのは他者との関係の中だからです。

たとえば、自宅に一人でいるときにパスポートは必要ありません。

しかし外国へ行くときには必要です。

だからといってパスポートが「他人のためだけのもの」ではない。

あなたという存在を示すものだからです。

アイデンティティも似ています。

一人のときは不要に感じる。

けれど人の中では輪郭が求められる。


むしろ、あなたの言葉を読んでいて感じたのは、

「アイデンティティがない」のではなく、

社会的アイデンティティと存在的な自己を区別して感じている

ということです。

自然の中では、

私はただ在る

という感覚がある。

これはかなり深い自己感覚です。

一方で社会では、

私は誰としてここにいるのか

が問われる。

職業、肩書き、実績、役割、発信内容などです。

そしてあなたは後者に対して、

どこか人工的なもの、 どこか「証明」のためのもの、

という違和感を持っている。

だから矛盾を感じるのでしょう。

 

自然の中で感じる「ただ在る自分」と、人の中で必要になる「アイデンティティ」は対立しているのではなく、

前者が根で、後者が枝葉なのだと思います。

根だけでは他者と関われない。 枝葉だけでは枯れてしまう。

あなたが感じている揺らぎは、むしろその両方を正直に感じ取っているから生まれているように思えます。

(ロボ談)

 

とってもわかりやすい。そのうえ肯定してくれるからとても聞き入れやすい。

・・というわけで、人の関わりを含む外の世界では、枝となる表現も必要であるから、私はどこかで自分に触れるためにこのブログをずっとずっと書いてるんだなぁと思う。

 

「それだけ続くということは何か自分にとって良いことなのだろう」と言ってくれた人がいて、今もしみじみそう思う。

なんとなく目の前を過ぎていく風景も、言葉に書いておくと自分を通した表現になるようで、きっとそれは自分にしか書けないものだから。その時に私は私の存在に触れていると感じるのだ。

 

 

 

理系の解決力

私はばりばりの文系なので理屈っぽいことが苦手だ。情緒や余韻や感覚や気持ちとか、そんなことにばかり関心があって、理屈じゃない感覚で物事を決めることも多い。でも、時にものごとを正しく整理して把握する力は理系の人は素晴らしいと思う。自分との違いがとても面白く、爽快だとさえ思うこともある。

 

私は鳥が好きだからそのような本も読むけれど、文系・理系の筆者両方よむとその違いは面白い。作家の梨木香歩さんは「渡りの足跡」で渡り鳥の「渡り」をする本能について、鳥の目線を探ろうとする。どのようなタイミングで、衝動で、海を渡っていこうと飛び立つのか。渡りに駆り立てる本能とはいったい、言葉にするならどんな思いなのだろう・・?という視点を感じる。

一方で、鳥類学者はたんたんと実験にもとづくデータから、どこに住み何をたべどのように育ち、どのように巣立つのか、生態を知ろうとする。そこに最近では鳥同士のコミュニケーションという鳥類の言語学なる分野も誕生しているからとても興味深いけれど、どんな思いで・・という情緒的なところには踏み込まない。

この違いはとても面白く、またどちらも鳥に対して関心を寄せる=愛情があるという点は、両者とも深いところで同じくする思いだ。

 

理系の方を爽快だなと思ったのは例えばこんな時だ。

昔、弓道に興味があり区の施設に何度か習いに行ったことがあった。歴の長いおじいさんやおじさんが教えてくれたが、まず正しい型を覚えて細かい理屈は後から、というような感じで、型は思う以上に難しく、型ができればちゃんと矢はとぶはずと言われてもよくわからなかった。その時にたまたま年の近い理系の女の子が(しかも東大生)、「矢にはこのような回転がかかってこうなっていくので、こうした方がいいんだと思います」と物理みたいなことをこっそり教えてくれて、すっかり腑に落ちて、「なるほどね!」と爽快に思ったものだ。

 

そして最近は茶道でも、探していた法則を理系の人が見つけてくれて、わたしはまた「爽快だ!」と思ったのだ。

茶道ではまずお茶碗をお湯で温めてからそのお湯を捨て、茶巾で3回半ふいて清める。3回半かけて茶碗を手の中で回し拭きながら、最後にはぴったり茶碗の正面は手前を向かなければならない。それでよく多くの先生たちは、3回ふいて最後の半分で正面にくるように調整すればいいのよ、という。ところが昔、一番最初に教えてくださったK先生だけは、「3回半で正面に戻ってくるのだから、〇度くらいずつずらして回していけばちょうど3回半で一周もどって、必ず正面が手前にくるのよ。」と計算した結果を教えてくださっていた。ところが時がたち、文系のわたしはその角度を忘れてしまい、(K先生が計算した黄金比があるのは知っている・・あれは一体何度だったの・・?)と長年の疑問だった。(理系の人には意味が解らないだろう・・)

そんなある日、クラスで先生とお天気の話をしつつ台風の特性についてちゃきちゃきと説明しているYさんが先生に「さすがね~もしかしてYさんて理系?」と言われていた。

するとYさんは「理系です。女で理系っていいイメージないから隠してたんですけど・・」とおっしゃった。「だから時々、皆さんがなんでこんなことがわからないんだろうってことがあるんです~」と言っていたので、これは・・あの法則をきくチャンスでは!とひらめいた。

そして帰り道に「これこれこうで、黄金の角度を探している」と話すと、私のつたない説明を瞬時に理解して、「はいはいはい。60度だよ。」と即答してくれた。試してみるとぴったりなのだ。

「60度・・!60度なんだ・・!黄金比率にまた出会った!」

と感動してしまった。

私は60度の黄金率のおかげでもう迷いなくお茶碗が拭けるし、いつでも何も迷わず何も調整しなくてもぴったり正面が合うようになった。

ありがとうYさん、ありがとう理系のみなさん!

Yさんは「逆にわたしは人の気持ちを考えろって言われる方がめんどくさい。国語の問題でよくあるじゃない?ああいうのすごくめんどくさい。うちは家族全員理系だったの。だから何か意見する時も、嫌だからっていう気持ちだけじゃぴしっとはねられてた。」といった。それで、少しばかり気が合わないところがあるかもと思ったことがあったYさんについて、理系の背景があったのか~と違いを理解して、人って面白いなぁと思ったのだった。

 

こうして人は助け合うようにできてるんですねぇ、文系の私がどんな役にたっているかわからないが・・。

 

 

 

 

 

ロジャース

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(※正しくは、ロジャースはプラザショッピングセンター内に出店してる大きい輸入品店舗でした。)

ここ数年は、家族で沖縄旅行に行っている。

那覇空港について、車でまずはロジャースにいく。ロジャースがあるプラザハウスショッピングセンターは日本で最初のショッピングモールで、3階建ての吹き抜けの白い建物で、両親世代が夢見たアメリカンドリームが詰まっている感じがする。出来たときはさぞ煌めいていただろう、今はやや時代に取り残された感じがあるが、食事と買い物ができて、あのアメリカンな風に吹かれるのをとにかく両親が楽しんでいるので、とりあえず毎回行くのだ。

タコス屋さんはマリリンがいたく気に入り、奥の古い中華レストラン「月苑飯店」はワンチャイが大好きでいつか1人でも通っていた。

2人はシェイキーズにも懐かしいね〜と目を輝かせている。「あの頃のアメリカ🇺🇸」の夢は永遠に褪せないらしい。憧れの対象なのである。

 

今回はA&Wという沖縄中にあるハンバーガーショップが新しくプラザに出店してたので、お昼を食べに入った。カップや食器にえがかれたオレンジと茶色のロゴがレトロで可愛い。

ワンチャイが、ルートビアを頼んだ。この日はサービスデーでルートビアがお得なんだと目ざとく見つけている。

すごいジョッキ🍺でコーラみたいな見た目のルートビアがきて、匂いを嗅がせてもらったら湿布薬みたいな匂い。これは飲む味じゃないわ〜と私が言ったら、やっぱりこれもアメリカンドリームの一種らしく、「味じゃなくて、アメリカを飲むのよ。」と楽しそうに言っていた。


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そういえば、ワンチャイは20代のころ詳しくは分からないけどアメリカ横断の旅に1人で行ったそうだ。マリリンとの出会いもそれがきっかけだったときいてる。

その頃3つ歳上のマリリンは六本木TMCという会員制クラブ(とマリリンが言うので)で働いていた。会員制クラブとは夜の仕事ではなくて、イベントや会議などで使われる施設で、色々な法人の人たちが顧客にいて訪れていたそうで、大学生だったワンチャイはそこで車のポーターのバイトをしていた。車が大好きで、六本木だからただで色んな車に触れるやった〜と思いながら、アメリカ旅行の資金を稼いでいたらしい。そこで秘書か何かをやってたマリリンは、アメリカ横断の夢を語るバイトのワンチャイを羨ましく思って、チケットの手配とか、準備を手伝ったという。自分もバックパックで旅行してみたかったけど、女の子は危ないからとおじいちゃんに反対されて行けなかったからすごく羨ましかったと言い、ワンチャイが旅だったあとも、現地に着いたら電話で安否を知らせるようにいい、会社で唯一国際電話の通じる秘書室の電話をその私用のために借りて連絡を取り合ったという。

無事の知らせはマリリンによってワンチャイの実家の家族にも伝えられた。

それから何十年、、

という話しである。

 

あの年代のアメリカ神話、白人への憧れは根強い。今だにマックに目を輝かせるマリリンに、米軍基地に目を輝かせるワンチャイである。

 

このロジャースはまだ2人にとって終わらないアメリカ神話なのだ。

建物も白くて吹き抜けていてオシャレなのに、いつも写真に撮り忘れてしまう。。

今度もう一度行けることがあったら、あの外観をちゃんと写真に撮っておこう。

最近、読書熱に火がついてる。

久方ぶりに、ばななさん以外の小説を読んだ。

ミヒャエルエンデの「果てしない物語」から、森見登美彦の「熱帯」をよんで、今は「甦れ!ブッポウソウ」という鳥類学者の本と、沖縄で買ってきた「沖縄まちかど本屋さん、かくかたり記」を少しずつ読み進めてる。

先日沖縄にいったときに、ショッピングモールであるロジャースの2階の雑貨屋さんに、古本コーナーがあって、そこの並びが魅力的だった、写真撮ってくれば良かったと思う。

それから、那覇にある桜坂劇場の漫画コーナーも最高である。上述の本屋さんかくかたり記は、桜坂劇場で買った。

 

思えば少し前に、「本なら売るほど」という漫画を読んだところ、愛読家が自宅に無数の蔵書をもち、自分の蔵書印を付してコレクションしている、というのを見た。そういえば私は先日、韓国小説の皮装丁本を手に入れて以来、書斎をいつか持ちたい・・と夢を持ったけれど、「蔵書」って視点で見てみると、どんな本をコレクションしたいか?と考えだした。

そうすると自ずから読んでない本がこの世には無数にあるわけで、気になってて読んでなかった本を読みたい欲が湧いてきて、本屋さんや図書館に行ったのである。

 

そして子供の頃にも感じたことを思い出した。

この世に本は海の如く無数にある。本棚にぎっしりと並ぶ本の背表紙を眺めるたびに、全て読んでやりたい!という気持ちがふつふつと湧く。

と同時に、この大海原を一生かけても制覇することなど不可能だ、、と打ちのめされ、じりじりと焦る気持ちで、目の前の一冊の一ページをめくろうとする。

 

それが、日本語の本だけでこうなのだから、海外の本屋さんのインスタを見て、世界中の本を読もうとしたらもう宇宙だ、、と、震える思いになるのだった。

本の山の前に打ち震える。

それでも、どれもこれも読んでみたくなって、むずむずする。

 

とはいえ、蔵書にしていつまでも持っていたいと思う本は限られる気がするし、そのような大切な作品にはやみくもに新しい本を読まなくても上手に出会ってきてるとも思う。

でも今は、気になる扉を開けていきたい気持ちで色々読んでる。

しばらくはこの熱を育ててみようと思う。

noteにまつわる

ブログには感動したことを色々書きたいけれど、

悲しくなるものもある。

私は長年よしもとばななさんのファンで、「花のベットで昼寝して」以降はあまり小説を読まなくなってしまったけれど、それまでの多くの作品、エッセイはいつも自分のお守りのように大切に読んできた。

 

ばななさんはコロナ前まで、10年にわたり自身のオフィシャルサイトで日々の日記風エッセイを無料で公開しており、後にその全ては幻冬舎から書籍としてでている。数年前からはnoteで有料のエッセイを書き続けている。今回、事情があってnoteの記事を販売していた。個人的なご家族との関係を綴り、いまお姉さんが命の危機であるためそのためのクラウドファンディングが目的であった。2万時におよぶ文章にはここに至る経緯と、心情と、覚悟が綴られていて、これを500円でなんて安いものだし、プロ魂を感じた。

今までのエッセイ全てを読んできて、垣間見えていたものもあったが、今回のnoteを読んで、これほどまでに壮絶な日々の上に、あの作品たちはあったのかと愕然とした。

そして、なぜ私がばななさんの作品に心救われるのかその理由がはじめてわかった気がした。

けれど、心無い批判がネットに渦巻いて心底驚いた。

 

どんな関係性であろうとも命の瀬戸際で、なんとか家族を助けたいと思い戦う人に、なんて心無い批判なのだろう、なんか、当たり前の良心的な情緒がない気がした。これだもの、こんな世の中だもの、今の時代に有名になっていいことなどないのかも。口だけ達者な人が多すぎる。

 

それで無関係な人たちが散々好き勝手言って満身創痍の本人を攻撃したあげくに、数日後にはぱったり話題に上がらなくなり忘れられるのがsnsのパターンだ。まるで群衆の行進が1人を踏みつけて傷だらけの本人だけが取り残されるみたいに。

その悪い面を思い切りみたきがする。

 

糸井重里がちょうどXで「ありがとう、や、お疲れ様、のように、大きなお世話、って言えたらいいのにね」みたいなことをツイートしていて、この事を言いたいのではと思った。

 

snsは、深い深い伏線のある物語を語るには適さないのかもしれない。

軽く簡単で表面的で、小出しにしていくものが良さそうだ。何もしらない通りすがりが表面だけとって一人前にいちゃもんつけていく世界だから。

 

やっぱり私はそっと応援する。いつまでも作品を読み続けることで忘れずに。