樹木希林さんで映画になった日日是好日を書いた作者の、映画化にまつわるもう一つのエッセイが「青嵐の庭にすわる」だ。
とても面白かった・・。なんだか涙が出た。
茶道を学ぶほどに思うので、目の前のこと以上に、見えていない深みが無限にあるということだ。
たとえば最初は、基本のお点前をすることが茶道だと思っている。
お点前の順序を一通り知って、「できた。」と思う。次にふと自分の姿勢がきになる。気を抜いてる瞬間があるな・・とお点前の間に姿勢を意識すると、先生の所作の綺麗さが見えてくる。あ、この手の角度も、この道具の置き方も、絶対に水をこぼさない柄杓の使い方も、お茶をこぼさない棗の持ち方も、指先のそろえ方も角度も・・無限のポイントが見えてくる。
ある時に、「落ち着いたお点前ができるようになったわね」と先生に言ってもらえる。お茶を点てるまでと、しまいの時の所作には緩急をつけることや、水の音をより綺麗に響かせることに心を向けてみたりする。
お点前だけじゃなくてやっぱり美味しいお茶をたてようと綺麗な泡を研究したり、お濃茶の練り具合なんかは水の量と温度とお茶の量で、ほんとに難しい壁にあたる。
そして、一度「茶事」に参加すると、これまでのすべてが、茶事の中のある一番を抜き出して再現していたことを知る。
道具に目をむけると、季節や趣向に合わせて、また茶室の広さによって格や趣向が異なり、それにふさわしい道具組みというのがあり、道具の材質によって格があることを知り、好みだけではない無限の正解が広がる。
少しずつ学びながら毎回新しい扉があって、気づきがあって、こんな深みがあったのかと驚くのだけれど、目の前のことを知らないとその次の扉は見えてこないので、この先にどれだけの深みがあるかは気づけないのだ。
この無限の学びは、ただの平点前をするその所作のすべてに凝縮されるので、
茶道を知っている人は、見ればその深みがわかる。
やらないと分からないし、話しても伝わらない世界であることを実感する。
なぜなら、私も知らなかったから。
樹木さんは映画で茶道の先生役だったけれど、お点前を覚えたのは映画にクランクインしてから撮影の直前だったという。
集中してその時に覚えて、あとはパッと忘れたという。その時の鬼のような集中力を作者がエッセイに書いている。
樹木さんは、この深みをそのお点前の所作にちゃんとにじませていた。
ただ表面の点前手順を覚えるのとは、わけが違うのだ。それがわかる人にはわかるし、わからない人にはわからないことが、ちょっと悔しい。
お茶の「深み」を知らない人には、まぁそのくらい覚えられるんじゃない?
と簡単に思われるけれど、そうじゃないんだよな~と思う。
その瞬間の役者さんの洞察とはすごいものだ。その深みまでおりていって汲み取って、やってみせたのだ。
「ちゃんと先生に見える」ことがどれだけすごいことかを、わかる人にはわかり、それがこの本にも書いてあり、私はそこに涙がでた。
声なき声を、見えない深みを拾える人なんだなぁと感動した。それは紛れもなく樹木さんの偉大さだ。
作者も、過去の自分を思い出し、何もわかってなかったなぁ・・伝わってなかったなということを今度はあの頃の先生の目線で知ることになり、涙を流す場面がある。
まるでそれは、「親の心子知らず」のような感覚なのだ。
親になってはじめて、あの時にどれだけ心配されていたか分かった、という思いと似ている。やがて自分がその立場になると「こういうことだったのか・・。」と愕然とする気持ち。「言って聞かせてもわからないことがある」という言葉に、まさにそれが自分の姿にも刺さり私も筆者と同じ場面でなんだか涙があふれてしまった。
私も、その深みを知っていきたい。数年前の自分もちょっと恥ずかしく思う。
もっともっと知っていきたい。それが人生の面白みだと思う。
そういう深みをもつと、ずっと人生の楽しみという灯が心に燃え続けるのではないだろうかと、最近そう思う。