かえってきた⭐️cui cui diary〜 ティータイムにessayを。

おもに旅日記、日々の中の新鮮さを保つこと。

万引き家族

いまさら見た

 

しょうたには、素直な良心があった。

駄菓子屋のおじさんの、妹にはやらせるなよ、の一言がすごく大きかったように思う。

盗まなければ手に入らないもの、だから万引きしていたけれど、駄菓子屋はお菓子を無償で差し出し、「あげるよ、その代わりな、」と釘をさした。それは初めての、大きな本当の愛情だった。しょうたの心に波紋が広がっていった。

 

人は生きる環境を選べないときがある。

その環境に適応しないと生きていけないときがある。万引きを生業とすることに罪悪感なく、殺伐とした会話をしながらも、その中でうまれた団欒はかりそめにしてもあたたかく、お金に恵まれた家庭でもギスギスしていればあんな団欒には恵まれない。そこにはお金で買えないものもあるように見えた。

 

偽家族として一緒に暮らしながら、親になりたいと思っていても、子供でさえも他から盗んできたものだった。1番運命を変えられた子供、しょうた。

社会の厳しさのせいか、愛に飢え目先の都合の良い暖かさのためか、居場所がうまれ、所詮は他人であるという無責任な気楽さと、大人たちが子供にはどこか人情のあるところが、不思議な関係を成り立たせているが、その幸せは脆く、今が良ければいい、の繰り返しだった。

 

「半地下の家族」のような、もっとみんな殺伐とした酷い映画なのだと覚悟していたが、その環境なりの「幸せになろう」という人情味があるのが不思議なところで、幻のユートピアを作っていて、「誰も知らない」のほうが救いが無くてつらかった。

 

そりゃあ家の中の汚さは半端ないし、実際は万引きを悪びれずに子どもにさせる大人は嫌らしさを醸し出しているのだろうが、俳優さんの人柄が透けて見えてしまって、「そんな悪くもない」みたいな印象になってる気もする。

リリーさんと安藤さくらと希林さんが、神々しい芸術にしてしまってる気がする。

本当にそんな生き方をしてる人は、顔つきももっと違うものだ。嫌悪感を感じさせて、受け付けないだろうが、これはやっぱり人が創った芸術だった。

 

偽家族の持つ意味は、家族それぞれにとって異なる。リンにとっては暖かいシェルターで、現実は残酷だった。かりそめながら偽家族が与えた温もりが、未来に彼女を救うことを願う。

1番翻弄されたしょうたは、自分で立ち上がる力があった。賢く偉かった。

本当の正しさと愛情を知る力があった。治は駄菓子屋のおじさんの言葉を聞いても何も響かない。

同じ環境にいても、運命を分ける素質だ。

この一線を分けるものが何か知りたい気持ちで映画をみた。

すべて明るみにだそうと、捕まるために走る姿に泣けた。

そして治の寂しさを理解する気持ちさえあって、見てて苦しかった。子どもは大人よりも状況を理解するものだ。

 

すべてが解決するものでもなく、問題を残していくところがリアルであり、社会の混沌を見せつけてくれる。